昭和45年3月26日 朝御理解
御理解第99節
「無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真がなければ、人は助からぬ。学が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる」
この所、いろいろに頂きます。まぁ、今日は、んー、「此方は無学でも、みなおかげを受けておる」と。んー、「真がなければ人は助からぬ」とおっしゃる。此方はみなおかげを受けておるとおっしゃる所から、教祖様がいかに、いー、真が、まぁ、いうなら真の権化の様なお方であっただろうと思われますね。皆人がおかげを受けておると。
そこで、私達がですね。そのーまぁ、お道の信心は真、真心と。もうこれは至る所に出てまいりますがね。その真、真心というものをです、いかに、真とは本当の事という事でしょうから、ね。その本当な事を分からせてもろうて、えー、それをいよいよ、おー、磨き上げたものにしていかなければならん。いくらそれが本当なものでありましてもね。磨きをかけてないものは、やはり値打ちは無い。ね。
えー、いかに、いー、玉(ぎょく)のような心。玉のような心である。ね。でもそれを磨かなかったら、磨かなかったら玉としての値打ちが無い。玉(ぎょく)としての値打ちが無い。ね。ですから、そこん所をね。教祖様はもう、限りなく磨きに磨き上げておいでられたのだとこう思います。
ですから、あー、結局、そのー、自分の心。いうならわが心。ね。わが心というのは吾(われ)。和らぎ、賀ぶじゃないですよ。吾というね。五に口が書いちゃりますよね。吾です。または我の我でも良いでしょうね。我がとか。吾とか我がとかという、いわゆる自分の心。ね。その吾とか我が、いわゆる我が心ですね、いわゆるその、いよいよ、おー、和賀心に変わっていくという事。我が心が和賀心に、よる、 んーまぁ、変化していくという。ね。
まぁ、最近いろいろ、皆さんも同じでしょう、分からせて頂く事は、確かに「おかげは和賀心にあり」と仰るが、確かにそうだという一つの確認を持つ事だと。ね。確かに和らぎ賀ぶ心という心に、これはおかげが伴うものだと。という確認から、まずしなければなりません。ね。
それをまぁ最近は和賀心ではなくても、和賀というその、おー、心を頂かせてもろうても、んーまたはその事を思うてもおかげが受けられると。その姿勢をね、そちらに向けただけでもおかげが受けられると。またそうでなからなければ、信心はできません。ね。和賀心になってしまわなければ、おかげが受けられんという事じゃない。という事が分かります。
けれどもその「学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる」という事はですね。自分自身が助かるという事ではなくて、もう自分の周囲の者。ね。自他共に助かっていくという事。皆おかげを受けておると。自他共に助かっていくおかげに繋がってまいりませんとですね、いわゆる今年の合楽の信心の、おー、焦点にと言うか、そのスローガンにと言うかね。に反れることになるのです。私が頂いておる心がですね、和賀心が、ね、皆おかげを受けておるという事に繋がっていかなければ。家族の中に信心のある者がない。私だけの信心であると言うならです。その信心を頂いておる人の心が、主人、家内であるならば主人に伝わり、親であるならば子供に伝わり、という事になってこなければならん。ね。
それにはね。いわゆる、そのー、本当な事。これは和賀心におかげが付き物であると、和賀心におかげが受けられるという確認を、まずさせてもらう事と。そこで、その和賀心なるものをですね、いよいよ磨いていこうという事になるわけです。清まっていこうという事になる。ね。そのいわゆる我が心ですね。いや、これは、自分の心ですね。自分の心の我が心がです、段々段々いわゆる和賀心に、和らぎ賀ぶ心に、いー、変わっていく。変化していく。その過程がですね、私は信心の稽古であり、また稽古させて頂く楽しみだと私は思うですね。
ここに、教祖様の元のお言葉にこうあります。「裃をつけたような心で信心をせい。裃をつけたようなおかげが頂けると話されたり」とあります。これはどういう事かと言うと、おー、裃をつけたという事は、裃をつけたという事は、あのー、きちっとしたという事だと思うです。それを私は信心の節度という風に皆さんにいつも申します。ね。信心には節度が大事です。ね。ではその信心の節度の元というのはやはり心です。
例えば、月次祭なら、月次祭にもう本当に時間励行できちっとお参りをしようというその心がです。行にあらわれたのが、裃をつけたようなという事になるのです。ね。だから、まず清まるとか改まるとかと言う前に、一番みやすうできる事は、私はこの裃をつけたような信心だと思うですね。改まるとか、磨くというのはなかなか難しいけれどもね。ね。ただ、裃をつけたようなと、これだったら誰だってその気になればできると思うんですよ。お日参りをさせてもらうと決めたら、もうお日参りをさせて、それを裃をつけたようにきちっと、それこそ行のようにという、そういう行をするんです。そこに裃をつけたようなおかげと私がね。
お互いがきちっとしたおかげを頂きたいなら、ね、節度のある信心をせよと。そこには必ずおかげに節度がついてくると。きちっとした節度がついてくると。しだごだの信心をするから、おかげがしだごだだ。という風に私は申してまいりましたですね。これなどはですね。私は信心を心がけさせてもらう者の一番大事な基本になるものでもあるし、これはその気になれば誰でもできる事です。ね。磨くとか改まるとかという事は、なかなか難しいと言うてもです。これはできます。ここの所は一つ、行のように出来なきゃいけませんですね。ささやかな事でも良いから、これだけはと。
これは、私の家内の母が私を。まぁ。私に、の事を家内に話しているんですよ。北京時代に。「もうこのお父ちゃんばっかりは、もうこれだけは間違いがない」っち。もう私がどんなに酔っぱらってから、いわば、ぐでんぐでんになってその4人も5人もんから抱えられるようにして帰ってくるんですよね。昔はよく飲んでましたから。それでもやはりですね、必ず、夜の夜中であろうがどうであろうが、手口をゆすいで御神前に出るんですよ。そして、天津祝詞あげて、大祓いをあげて、まぁ、そのまま大祓いあげながらそのまま、倒れとるような事もありますけれどもね。もう、これだけは絶対なものでしたですね。そりゃ、私の北京時代の神様に向かう一つの、そういう風に思い込んでおったんでしょうね。これだけはと。まぁ、大きな願いを持っておりますから、その大きな願いが成就のために、これだけはやっぱりなし、なさなければという、一心のようなものがあったからそれが・・・ね。
「もうお父ちゃん、これだけは感心な」と言うて、母が感心しております。ようにですね、何かです。信心させて頂くならば、そこにきちっとした裃つけたような、そこで何かするも、まぁ、本当のおかげに繋がる。有り難い事にです。これだけはといったようなものがきちっと裃をつけたように一つできる稽古をなしていき、しかもそれが段々もっと素晴らしい事に育っていくというようなおかげを頂く事は、有り難いですね。もう自分の都合ばかりを言うてから、こう思いよりましたばってん、こうじゃったからと言い訳をして、その、だから神様の前には言い訳はたたんというのは、その事です。ね。
今、あのー、光昭が善導寺にお日参りをさせてもらいます。なんか数ヶ月前だったでしょうか。風邪でもう大変頭が痛い。寝ながら「今日はもうご無礼する」と思うて休んどったら、ね。いわゆるその御神耳でしょうね。神様のお声が耳元で響いたと。「ほうてでも参れ」と神様がおっしゃったと言うてから、どてらを着たまま私が食堂におったら、あそこの食堂の下に座ってしもうてから、泣きよりますもん(笑)。初めて神様からお声を頂いてびっくりしたとです。感激してですね。今神様から今日はご無礼せにゃと思うて休んだら、休んでおる時に、御夢の中に神様の声を頂いた。ね。「ほうてでも行け」と。いわゆる神様がいかにその裃をつけたような信心を、私共に求めておられるかという事が分かるでしょうが。それはね。そういう裃をつけたようなおかげをもっ、えー、裃をつけたような信心を求めておられるという事はね。神様がそのきちっとした裃をつけたようなおかげがやりたいばっかりだと思うですね。そうでしょうが。ね。私はこの辺の所をですね、私はしっかりおかげ頂かなければいかん。これがやはり信心の、やはり信心には行がつき物ですから、そういう裃つけたような、いわば修行が大事だという事。これはもう本当にそうなんですよ。
もうこれだけはと。私は昨日、昨日一昨日からでしたか。あのー、毎日ここんところ高橋さんと久保山繁さんが、ここの教会事務の事でいろいろなさっておられる。高橋さんは教会事務の事。繁雄さんは経理の事でですね。もう私は昨日見てからたまがった。こんな厚い本がもう、いっ、経理の帳面がもうぜーんぶ書いてある。それこそもうそれこそもう、活字をおしたよりも美しゅう書き上げてあるんですよね。今日、経理の検査が二日市の教会であるんです。それで、提出して、しなければならん。今日、二人でおいでる事になっております。そして繁さんが言われる事がですね。「あんまりにもいうなら、一分一厘間違いなく出来たからですね、いかにもね、しらごつのごたるから、まぁ、わざとですね、一カ所だけこうやって違ったようにしました」と言うて。位にきちっとしておる。ね。私は繁雄さんはこれで徳を受けると思うですね。ん。これでおかげを受けると思うです。あれが行のようにああしてなされるという事によって。それはもう大変なんですよ。まぁ、私が冗談ですけれども昨日言った事じゃった。「もうお父さんが早死にしなさらにゃんはずじゃった。お父さんなら絶対こげな事できんばの」(笑)ちゅうてね。ん。という程しにきちっと出来ておる。それは本当に驚くばかり。あれだけの事を消すのに書き直す所がなかが。あんまりこれしらごつのごたるから、締めくくってしもうてからですね、ちょっと間違うた所を作ってから、わざと作ってこうしました。という風にある。
きちっとという事は間違わないという事だと思うんですよ。やはり。ですから、合楽では、これは例えば「信心は御用なり」という言葉は須田先生が発明しなさった事になってますよね。ですから、もう「信心の節度」という事はこれは私が発明した言葉です。いうなら。こんな事はよそで聞いたことがない。ね。信心には節度を持てと。ね。節度を持つという事が、節度のついたきちっとしたおかげが受けられるんだと。私はこれはもう、長年この事を言うてまいりましたですがね。それを教祖は「裃をつけたような信心をせよ。裃をつけたようなおかげが受けられる」とやっぱり仰っておられます。ね。
そして次にですね。「教祖、んー、親族から度々信心をやめと言われる、言うけれどもやめん。お前達信心をせいと言うてやりしが」と。例えば御親戚からあまりに熱心に信心をされますから、教祖様の元に信心をやめいと度々言うて来るわけです。ね。だから、それに反対に答えてですね、「お前達こそ信心をせいと言うてやり」とこう言われる。ね。と「やりしが」が「お前のような信心はせんと言いおりしが」と。「病気入って願いきたと云いと話されたり」影山という人がその事を伺っておりますですね。
今日は私が申しますようにね。私共が信心をさせて頂くという事がですよね。信心を止めよった者までもが、やはりついてくるようなおかげを受けなければならん。という事です。ね。それにはですね。「此方は無学でもみなおかげを受けておる」と。みんながおかげを受けていくもんですからから、止めよった者でもやっぱり病気にでもなると、お願いして下されと言うて、まぁ、やってきた。そして、おかげを受けて教祖のいわば、信者になったというわけです。「此方は無学でもみなおかげを受けておる」という事になってくる時にです。そのいわゆる、きちっとした信心からです。ね。次にいわゆる我が心、自分の心。ね。その心がです。和らぎ賀ぶ心に段々変わっていく。変化していく。いわゆる我が心が神に向こうて行くわけです。ね。
真がなければと中におっしゃっておられます事はですね。いわゆる本当な事がなければ、本当な思い込みがなからなければという事をです。本当な事という事をまず、確かめよというわけです。それを今日私はね。和賀心には、なるほど頼まんでも願わんでも、おかげが伴うんだと分かる事が本当な事なんです。ね。真とは私はそうだと思う。ね。だから、例えば、はぁーそうだと気が付かせてもろうて、和賀心にはなれんでも和賀になっただけでも。和らぎ賀ぶそうしなければ人間の幸福はあり得ないんだと分かっただけでも、おかげが頂ける。そこに私は、あのーいうなら、おかげの不思議さというものを感じます。いかに神様がその事を願っておられるかという事。ね。
先日、中村さんの所で中村さんに言うんですよ。「中村さん、毎日毎日いつも鏡ば見なさい。自分の心が和賀心の顔になっておるかどうか。くやみ顔になってはおらんか」(笑)。と言うて鏡を見なさいと私が言うんです。ね。なるほど自分の顔を鏡に映して見ると、なるほど和らぎ賀ぶ心だな。と。(笑)。ね。でないならば、あぁ、これは一つ、和賀心に思いを変えなければいけないなという風にです。精進していく。そういう事が本当な事なのです。これは人間の本当な生き方なんです。ね。だから、本当な生き方する。しかもそれがきちっといくから、きちっとした本当なおかげが頂けてくるんだと私は思う。ね。
「此方は無学でもみなおかげを受けておる」無学でも、ただ無学だけでおかげを受けておられるのではなくでですね。無学でも真が熱うあられた。いや、もう真の権化のようなお方であられた。しかも、裃をつけたような行の中からです。いよいよ和賀心を目指して、生神金光大神の御神格を受けられる所までも、それを進めておいでられた所にです。真があった訳です。ね。それが真。本当な事を分かり、本当な事に向かって精進するという事なんです。ね。皆さんここの所を一つ、思い込ませてもらうおかげ。本当な事が分かる。それは本当な事を話で聞いただけでは、やっぱりいけないから、ね。その本当な事を確認する。それを和賀心にならせて下さいという願いがですね。願いを立ててその事の修行をさせてもらう所から、ね。なるほど和賀心にはおかげがつくわいという確信をですね。いわば、いや、確認です。ね。確認していくわけです。確かに、なものにしていくわけです。もう本当にもう、不思議な事ですねぇ。と。
昨日竹内先生が、午前中に奥さんがみえとった。午後から先生がみえられました。皆さん、いろいろお祈りを頂いておりました。先生のまぁ今度、市長候補者としておかげを受けておられました。前の市長さんとまぁいろんな問題が、複雑な問題がありましてね。片一方はもう金の力ででもとこう。昨日先生が言うておられましたがですね。県庁から来た人が一番始めに言った事は「不思議だ」ちゅうて。何が不思議かというたらですね。市長を二期務めたらね。その一期目じゃなんじゃかんじゃ分からん。二期目から本当の例えば、市政の事というかね。その市長さんとしての本当の仕事が出来るのは二期目からだと。そのいうならば、一番脂がのったこの三期目にですね。どういうわけで、その、辞表、辞任をされたか分からない。ちゅうて。それが不思議だと言われたちゅうて。そういうただこちらは市長になる、ならんは別として、親先生から言われて、こうこう御理解を頂いて決心して、まぁ出馬しただけだけれども。ね。
ある教会の総代さんがやってみえた。ね。「あんたがいくら合楽の先生がお徳が高かと言うたっちゃ、金の力には負くるばの。ちゅう。だから今のうちにやめときなさい」と言うて来た。同じ金光様の信者です。まぁ、本当に心外で心外でたまらなかったっちゅう。しかも総代で、町では大変な、何て言うんですかね。あのーまぁ、有名人でもありなさるらしいですね。ね。いかに合楽の先生が御神徳が高いと言うても、金の力には負くると。勝てん。もう、こちらはもちろん金はない。向こうには金はたくさんあると言うわけです。だから、もうこれだけはね、聞き捨てならん。これだけは許せん。と。
昨日もあのー丁度、研修会の半ばでしたから、みえてからその事を言うておられます。私もそうですなぁ。と言うたけれども、まぁ、あれだけ一生懸命言いよりなさるからね、そうですなと言ったけど、実際はそれが許せなければ駄目だと。ね。金光様の御信心。しかも、そこの教会のいうならば、総代までもしておられるのですから、までもしておる者がこのような事を申しておりますと。ね。どうぞ、信心が、いわば。とにかくね。他のことなら別としてから御神徳というものがね、金光様の御信心、御神徳というものが金の力に負けるという事は、これはもう大変な事だと。まぁいう訳ですよね。けれども私共はその所をですね。まぁ、そうも感じますけれども、よくよく考えてみると、それが許せる心が和賀心だと思うですね。だけではない。それを祈らせてもらう心が和賀心だと思うですね。
だから、今度自分がもし市長になられたら、なんかそこに一つの、おー、えー、焦点というかスローガンのようなものを作っておいでられるでしょうよね。自分の生き方というものを打ち立てていかれるだろう。そういう時分に、まぁ、おそらくその和賀心というようなものがですね。その内容としての事になるだろうがです。その和賀心が内容になるならば、例えばそのー、あー、自分の事を悪口言う者ならですよね、まぁ許せるけれども、神様の事、しかもその金光大神の御神徳には金よりも力が弱いなんていうような事を、しかも金光教の信者であり、総代でもある者がそういう事を言うたって事は許せん。と、まぁいうならば息巻いておられてもですね。先生の事だからそこは分かられると思うけれどね。そこの所が許せる心。ね。それが私は和賀心だと思う。ね。だから、その和賀心がいよいよおかげを頂く。ね。
木偏に奉るという字を書きますと「捧げる」という事になりますね。私は本当のね、おかげを頂くという事はですよね。私の心、いうならば、全身全霊をね、神様の前になげうった時、捧げた時、私は金光様の御信心の本当な信心はそこから頂けるもんだと私は思うとります。ね。だから、捧げるという事はどういう事かというと。木偏に奉る。と。木は心とまぁ、頂きますか。ね。心を奉るという事です。どうでしょう。皆さんが「そんなら私は心を奉ります」と言うたっちゃ、神様が受けなさらんじゃろうと思うです。何故かというと、汚れに汚れとるとじゃから。ね。お供え物でも泥の付いたまま野菜をお供えするわけにはまいりません。やっぱり清めた上にも清めて、しかもマスクをはめて先生方が神饌をなさって、そしてお供えを、しかなりません。
同じです。心も。ね。私がいかに全身全霊をあなたに捧げますというてもです。ね。汚いもの、いわばその、だからそんなら清まってしまわなければというとまた大変難しいですけれどもね。ね。ですから本気で和賀心にならせて頂こうと。本気で清まろうと。自分の心をです。本気で清まろうという気になれば、もう清まったとして神様は受けて下さると思うんです。人間の心ほど汚いというものは無いと言われるのが、その汚い心でもです。これを本気で清めようと。信心によって清めようと。本気で和賀心にならせて頂こう、ならせて下さいという願い。そういう心ならね、神様は受けて下さる。その心を私は捧げての生活。ね。それが私は信心生活だと思うんです。
「みなおかげを受けておる」前にまず自分自身がおかげを受けなければならない。ね。それにはまず、信心に節度。いわゆる裃をつけたような信心をです、まず、行としなければならない。ね。
そして、例えば、和賀心にはこのようにも間違いのないおかげが伴うもんだというです。ね。なぜ伴うか。それは本当な事なのだから。ね。自分の心、いわゆる我が心をです。いわゆる和らぎ賀ぶ心、和賀心にそれが段々変わっていくという事。その事になる事の姿勢を正すという事。ね。が、このようにおかげを受けられるという確認をして、その事にいよいよ精進させてもらい。いよいよ清まった上にも清まらせて頂こうという、ね、姿勢をもって、おかげを頂いていくならです、その心が例えば、自分の周囲の者にでもね。おかげを見せながら助かっていくのですから、信心の反対をしよった者でもです。「私もさせて下され」と言うて願ごうて来るようになる。ね。本当に世のお役に立たせて下さいという熱願がです。ね。ただ、その熱願だけではいかん。それが清らかに、清まったもの。その心でね。願いを立てなければならん。全身全霊を捧げると言うても、ね。それが清まったもの。美しいもの。それが捧げられた時に、神様がそれをお受け下さるという事になるわけです。
なるほど、ここに至ってくる時です。ね。「此方は無学でもみなおかげを受けておる」というようにです。ね。私共の周囲にも、私が助かる通りにみなおかげを受けておるという、自分の周辺が段々明るくなってくるというか、清まってくるというおかげになってくるわけでございますから。本気で、ね、我が心から和賀心への転移とでも申しましょうか。ね。変わっていく。その事に焦点を置くという事はなぜかと言うと、その事は本当な事だから。ね。真がなければと仰る。真とは私はそういう事だと思う。本当な事だという事。だから、これが本当な事だとまず確認のできれるおかげを、まずは頂かなければなりません。それから、裃をつけたような信心になり、それから、我が心が和賀心へ向かって進んで行くという信心の、おー、道を辿らせて頂くという事だと思うですよね。どうぞ。